トニー・パーカーの人生とスパーズの運命を変えたサム・プレスティ(22歳)

●サージ・イバカでオラディポ、サボニス(ともに後のオールスター)+αを獲得
●トレード要求をしたポール・ジョージを元手にシェイ(後のオールNBA1st.チーム)と幾千もの指名権+αを獲得

サンダーのサム・プレスティGMが犯した驚きの悪事行ったすばらしいトレードは多々ある。

しかし、過去インターン生として勤めていたスパーズ時代に実行したトレードはあまり知られていないかもしれない。そのトレードで若干22歳の青年はスパーズの未来を変えた。

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ポポビッチ「優秀すぎるから隠したい」

いつもどこにでもいたんだ。チームの新入りだったら、サムの肩書が何かなんて分からないと思う。ビデオルームにいたと思えば、コーチの周りにも選手の周りにもいるし、GMと一緒にいることもあったからね。

 スティーブ・スミス

2000年、プレスティはエマーソン大学を卒業するとインターン生としてスパーズで勤務を始める。はじめの役割はビデオコーディネーター。

月給250ドルのインターン生はハードワークですぐに頭角を現す、当時スパーズのGMを務めていたRC・ビュフォードはプレスティが昇格するのに時間はかからないと悟ったそう。そして、そのハードワークぶりは選手にも伝わっていた。

いつでも一生懸命でバスケットボールに対する情熱がすごかった。サムは口数が多いわけではなかったけど、相手にたくさん話させて聞いて学んでいたね。

 スティーブ・スミス

2001年にスパーズに加入したスミスはその年に3P成功率47.2%でリーグ1位を記録、翌シーズンにはスパーズでリーグ優勝を果たしている。

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ビュフォードの予想通り、プレスティは途中でスカウトを経験しながらたった5年でアシスタントGMまで昇り詰めた。

まず第一にサムはとても賢い、サムと話したらすぐに分かる。第二に完璧なチームプレイヤーだ、ただただ素晴らしい人物でいつでも誠実で一生懸命な男だ。我々にとってこれ以上にない存在だった。

 グレッグ・ポポビッチHC

NBAが誇る名将も手放しで褒める男、サム・プレスティ。

プレスティがスパーズを去りスーパーソニックスのGMに就任したとき、ポポビッチはこんな名言(ジョーク)も残している。

“サムをしばらく押し入れに隠しておこうかと思っていた、そうしたら誰にも気付かれなかったからね”

ポポビッチとのインターン時代の思い出について、退場させられ怒り心頭のポポビッチが事務所で暴れた後に何事もなかったかのようにビデオルームに来て残りの試合を隣で一緒に見たというエピソードを披露したプレスティ。

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運命を変えたトレード

はじめのワークアウトは12時間のフライトの後すぐに向かったのもあって疲れていた、ポップも“こいつはダメだ”って感じで見てたよ。

 トニー・パーカー

2001年、19歳のドラフト候補生だったパーカーはスパーズのワークアウトでひどいパフォーマンスをした。スパーズのスタッフとの1on1で完膚なきまでにやられたのだ。

相手を務めたスタッフのランス・ブランクスは元NBA選手とは言えすでに現役を引退した人物だったがパーカーはフィジカルで圧倒された、ポポビッチはそんなパーカーに「ソフトで何の特徴もない選手」という印象を抱く。

ここでスパーズとパーカーの縁は切れて結ばれることはなかったはずだった、19歳のフランス人ガードに惚れ込んだ男がいなければ。

トニーのことを調べるのにはかなりの時間を費やす必要があった、大体それはRCの家のリビングだったね。夜RCの家に行ったら、自分はまるでDJみたいに色んな選手の何年間分かのビデオを流して一緒に見ていた。我々はどんどんトニー・パーカーに惹かれていっていたんだ。

 サム・プレスティ

「パーカーの実力はこんなもんじゃねえ」と知っていたプレスティは心を燃やす。

“ワークアウトがうまくいかなかったときは受け入れがたかった、彼女を両親に紹介したのに気に入ってくれなかったときと同じだ”

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しかし、問題があった。いくらパーカーの良さをアピールしようにも出回っている映像が少なかったのだ。Youtube等のネット動画媒体もない時代で新たにパーカーの映像を入手するのは至難の業だった。

ここでプレスティは妙案に打って出る。

いわゆる闇市場のようなものに手を出した、トレードを持ちかけたんだ。こちらがキーチェーンとかのスパーズグッズを送る代わりにフランスのクラブチームに試合のビデオを要求した。

 サム・プレスティ

プレスティはポポビッチにパーカーの何が悪かったかを聞いた後、トレードで獲得したビデオを見返して3分間のテープを作成する。

ワークアウトではうまくできていなかったプレーだったが、実際の試合では色んなシチュエーションでパーカーがそのプレーを成功させていたことを証明するビデオだった。(具体的にどんなプレーかは不明だが、おそらくポストディフェンス)

ビデオテープのラベルにトニーの年齢を書いていたのを覚えているよ。能力だけではなくて18歳にしてプロリーグで張り合っているメンタルもアピールした。小さな体だけど、恐れ知らずのプレーに私とRCが惚れ込んだんだ。

 サム・プレスティ

後にGMとして数多のトレードを手掛けたプレスティ、この『スパーズグッズパーカーのビデオテープ』のトレードが記録に残るプレスティ史上最古のトレード。

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ビデオテープを用いての必死の説得でスパーズとパーカーの2度目のワークアウトが決まる。

再度チャンスを得たパーカーが実力を発揮すると、そのパフォーマンスを見た後ポポビッチは体育館の外で待っていたスタッフに合流しこう切り出した。

“あの子はNBAで10年間スタートを張れるポイントガードになる”

スパーズがトニー・パーカーの指名を決めた瞬間だった。

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その後のスパーズとパーカーがどうなったかはここに書くまでもないが、一点ポポビッチの誤りを指摘したい。

パーカーは10年どころではなく約16年に渡ってスパーズのスタートPGとして君臨し続けスパーズを4度の優勝に導いた。

2019年にはチームの永久欠番、そして今年はリーグの殿堂入り。NBAを代表するレジェンドにまで昇りつめた。

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リーグのレジェンドとなったパーカーは今でも当時の恩を忘れていない。

“サム、今日アリーナに来ていることは知ってるよ。あなたとRC(・ビュフォード)には未来が見えていたんだよね、あんなギャンブルをしたんだから。” (永久欠番セレモニーのスピーチでの発言)

“RC・ビュフォードとサム・プレスティがポップに2回目のワークアウトを提言してくれたことを本当に感謝している”(殿堂入り式典の囲み取材での発言)

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