【サンダー名選手列伝】クリス・ポール~ファイナルまでの道のり~

“この全てのきっかけを作ってくれたサム・プレスティにとても感謝してる”

自身初のNBAファイナル進出を決めた試合後の会見でフェニックス・サンズのクリス・ポールはオクラホマシティ・サンダーのサム・プレスティGMに感謝の言葉を述べた。

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「予想もしていなかった」

その日は突然やってきた。

クリス・ポールはヒューストン・ロケッツからオクラホマシティ・サンダーへトレードされた。

セージバレーという場所で家族で過ごしてたときだ、自分がトレードされたという電話がきた。予想もしてなかった、知らなかったんだ。ダレル・モーリー(HOU前GM)はその数週間前にオレをトレードすることはないって言ってたから。

 クリス・ポール

当時、ポール・ジョージのトレード要求で方向転換を余儀なくされたサンダーの最優先事項はヒューストン行きを希望していたラッセル・ウェストブルックの願いを叶えることだった。一方、モーリーは次第に悪くなっていくジェームス・ハーデンとポールの関係を解決しようと必死だった。

結局、ロケッツは2つの1巡目指名権と2つのスワップ権をポールに加えほぼ同じ契約金のウェストブルックを獲得した。

(ちなみにモーリーはすぐにポールはマイアミにトレードされると思っていたが、ヒート側に興味はなかったそうだ。)

長くプレーしていたらチームは話くらいはしてくれるもんだと思ってた、言ってる意味分かるよね?もちろん、契約下だからやりたいことは何でもやればいい。でも会話をするくらいの敬意は見せてくれてもいいと思うんだ。それがヒューストンでは起きなかった、それだけのことだけど。

そのトレードが起きたとき、家族とは一緒に過ごせなくなることが分かったこと(この後、ポールは単身でオクラホマにきた)だけには動揺したよ。でもバスケットボールに関してはメンタル的にもフィジカル的にも全てを切り替えられた。だから、次の日の朝6時からコリン・セクストンと練習を開始した。落ち着いていた、バスケットボールに関しては次に何をしないといけないか分かっていたから。

 クリス・ポール

この夏、クリス・ポールは弟子コリン・セクストンとワークアウトをしていた

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「バスケットボールをすることがオレの仕事なんだ」

2019年夏、ロサンゼルスの中心街にある Creative Artists Agency のオフィスでクリス・ポールとサンダー職員5人、ポールの家族、エージェントが話し合いをしていた。

Creative Artists Agencyはポールが所属するエージェンシー、NBA選手だけでなくブラッド・ピットなどの俳優も所属している、ちなみにブラッド・ピットはオクラホマ出身

サンダーはポール入団後、サム・プレスティGM以下全員がかなりの時間を費やして30代中盤になるポールの衰え方を調べ、そして彼を悩ませていた怪我に対する最適解を探していた。

そのサンダーが導き出した答えは“ロードマネージメント”、つまりポールの出場試合数を制限することだった。

サンダーはオレに34,5歳の選手がいかに衰えるかPowerPointのプレゼンをした。ただ座って聞いてたよ。同じ年齢のときのナッシュ、キッドやビラップスがどうだったか、彼らのスタッツなんかを見せてくれた。ただ座ってた、彼らに“我々は君はおそらく60試合ほどしか出場できないと見込んでいる”って言われたんだ。

 クリス・ポール

出場試合数の制限に加え、サンダーはポールが欠場時にLAにいる家族と会うことも許可した。家族との時間はトレードが決まったときにポールが真っ先に心配していたことでサンダーもそれを理解していたのだ。

しかし、ポールの答えは“NO”だった。

サンダーには“ここでプレーしているとき、君は家に帰って、家族に会ってもいい”と言われた。彼らはオレが家族とどう過ごしてきたかを理解してくれていたから、そういう角度からアプローチしてくれた。でもPowerPointが終わったあとに言ったんだ。

“みんながここに来てくれたことには感謝する、でもみんなオレのことを分かってない。オレは計画的に休んだりなんてしない。オレに家族と過ごすことを許可してくれたことには感謝する、でも家族との時間は自分でつくる。バスケットボールをすることがオレの仕事なんだ”ってね。

 クリス・ポール

もちろん、ポールも自身に“怪我がち”というレッテルを貼られていることは分かっていた。だから、トレーナー、食事、睡眠サイクル、全てを変えた。

たぶん、そのときみんなヒューストンでの怪我のことを考えてたと思う。“そんなこと言ってもお前は過去2シーズン56試合しか出てねえじゃないか”って。そのときには、色々変えたことを説明してたんだけどね。でも分かってるよ、そのときはみんな何も見てなかったから。

 クリス・ポール

言葉通り、ポールはその変化を証明した。

そのシーズン、欠場は72試合中2試合だけで大きな怪我なく過ごしたのだ。(その2試合の内訳はコービー・ブライアントが亡くなった翌日の試合とレギュラーシーズン最終戦)

今、サンダー職員は当時ポールに見せたプレゼン資料を“無駄なPowerPoint”と呼んでいるそうだ。

変化の目玉がプラントベースダイエットだった、ポールは自身が制作に携わった映画“THE GAME CHANGERS”の影響もあり食生活を変えた

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もう一つサンダーで有言実行したことがある。

OKCに行った初日からサム・プレスティとビリー・ドノヴァンはオレや選手たちとずっとコミュニケーションを取ってくれた。初日にミーティングがあったからみんなに“オレはここにいたい、別のチームに行こうだなんて考えてない”って言った。オレは何でも信じてやり抜くし、メディアの思い通りになんてさせたくなかったんだ。

 クリス・ポール

ポールはESPNに進出率0.2%と予想されていたサンダーをウエスト5位でプレーオフに導いた。

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「全てのことが起こるべくして起こったんだ」

2020年プレーオフ1回戦敗退後、ポールは察していた。これがサンダーとして最後の試合になることを。

シーズン終了後サンダーに向けて感謝のメッセージを送るポール、非公式のさよならメッセージでもあった

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その数カ月後、若手の育成に切り替えるサンダーとポールは袂を分かつことになるが、このときサンダーはポールが希望する行き先にトレードすることを約束した。例え、見返りが少なくなったとしても、それがポールが若い選手たちに示してくれたプロフェッショナリズム、メンタリズム、プレーに対するサンダーの敬意だった。

そして、ポールはサンズと面談しサンズ行きを決意する。

(皮肉なことに、このときダレル・モーリーがフロントオフィス入りしたフィラデルフィアがポール獲得に向けて動いていたが、ポール側は興味なかったそうだ。)

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フェニックスはポールにとって魅力的な環境だった。家族の住むLAには飛行機で90分で行ける距離で、球団副社長のジェフ・バウワーとHCのモンティ・ウィリアムスはニューオリンズでプレーしていたときのGMとHC、GMのジェームス・ジョーンズは選手会でともに活動していた仲で、ACのウィリー・グリーンは元チームメイトだ。

モンティとここにいるスタッフがカルチャーを築き上げようとしていた。オレが来たときにそれが大きかった。トレードが決まったとき、モンティと長電話したんだ。モンティはオレの結婚式にもきてくれた人でコーチと選手以上の信頼関係がある。

 クリス・ポール

そして、もう1人ポールを惹きつけたのがサンズの若きエース デビン・ブッカーだった。

ブックに自分を重ねてる、シュートとかバスケットボールに限らずだ。相手が嫌がるプレーをする、自分も今でもそうやってプレーするから。ブックが毎試合熱くプレーすることを知ってる、あいつは誰にも遠慮なんてしないんだ。

 クリス・ポール

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ポールにとっては完璧な環境だったが、36歳のポールが10年以上プレーオフに出場していなかったフェニックスを選択したことに懐疑的な意見もあった。

しかし、ポールはオクラホマでやったように、いやそれ以上のことをフェニックスでやってのけた。

レギュラーシーズンをリーグ2位で駆け抜け、チームをファイナルまで導いたのだ、16年目で自身にとって初めてのファイナルだ。

この全てのきっかけを作ってくれたサム・プレスティにとても感謝してる。初めてブックと話をしたとき、ジェームス・ジョーンズと話をしたときのことを思い返してるよ。

 クリス・ポール

辿り着くのに何度も怪我をした、家族とも離れ暮らした。でも後悔はしていない。

ここまで来るのに、全てのことが起こるべくして起こったんだ。プロセスの一部分だったんだ。

 クリス・ポール

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